手にしたタクトをゆっくりと譜面台の上に置き、部屋を満たしたフォルテールの音が 静まるまで、わずかな時間、目を閉じる。彼にかける第一声は、誉め言葉ではないだろ う。しかし、迷いながらも模索するその音色は、評価されるべきかもしれない。  だから私は、閉じたときと同じようにゆっくりと目を開け、楽譜を閉じた。 「よろしい。今日はここまで」  時刻は、十七時をわずかに越えた頃だった。学生の個人レッスンをすべて終えた後の 時間は、こうして不肖の弟子のために費やされる。一応、助講師の研修という形をとっ てはいるが、やっていることは学生時代とあまり変わらない。  目の前のその不肖の弟子、アーシノ・アルティエーレは、疲れたような笑みを浮かべ ていた。演奏に対する評価をくださないのは今日に限ったことではなかったが、なにも 言われないのも、気にかかるらしい。 「あまり上手く弾けませんでしたか?」 「技術は確かに上達したな」 「それは、ほとんど毎日こうして直接コーデル先生の手ほどきを受けてますからね」  自嘲っぽく、彼は微笑む。 「なにが足りないんでしょうか?」  すぐに真剣な表情を浮かべ、アーシノはそう続けた。答えはすでに出ている。  彼に足りないのは、自覚だ。 「なぜ、君はフォルテールを弾いているのか」  かつて、師が私にそう言った。その言葉で私は悩み、そしてついに答えを見つけるこ とができた。それが今の私を作り、生かしている。 「そこにフォルテールがあるから……じゃ、駄目ですよね」 「その言葉には、君の真実が含まれていないからな」  放課後のレッスン室を後に、私達は講師に用意された個室へ戻った。講義やレッスン の前準備をするための部屋だったが、それにしては仰々しいといつも思わされる。キッ チンやロッカー、そして大きめな机は、一講師のためのものというよりは、学院長やそ れなりの地位をもった者にふさわしい。もっとも、学院長の私室を知っている身として は、この部屋は控えめであると言わなければならないが。 「お茶をいれますね」  アーシノは、キッチンに常備されているセイロンの葉の入った缶を手に取りながらそ う言った。蓋を開けてすぐ、かすかな葉の匂いが部屋に漂う。備品なのだから私が特に 気にすることもないが、それにしてもフォルテールの講師は恵まれているな、と考えた。  慣れた手つきで、アーシノはカップを温める準備を始めている。それを横目で眺めな がら、彼のことを、考えていた。
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